日本書紀に関するニュース


仁寺洞に王仁博士の行列
中央日報
古爾王52年は日本書紀の「応神16年」の記述を百済年号に合わせたもの。 原本は古事記・日本書紀だが、内容は明らかな『偽書』・・その偽書の内容を膨らませて、王仁博士博物館まで作ってしまう『愚民』・・その間違いを検証しようともしない愚かな新聞記者チャン・・ ...


古事記:12年度、完成1300年 県、観光客誘致へ新事業 /奈良
毎日新聞
県は17日、古事記の完成から1300年に当たる12年度に、古事記や日本書紀、万葉集などを題材とした事業を展開するため、「記紀・万葉プロジェクト」を立ち上げると発表した。1年間かけて、観光ルートの発掘や関連イベントなどを検討する。 ...
記紀、万葉集を再発見 - 島根、宮崎と連携も【古事記献上1300年】奈良新聞 (会員登録)

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北海道新聞

国内最古、馬の乳歯「河内馬飼」の実態示す
読売新聞
同遺跡は「日本書紀」に「 河内馬飼 ( かわちのうまかい ) 」と記された集団が、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態が ...
大阪で国内最古・馬の乳歯出土 5世紀、飼育を裏付け47NEWS

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読売新聞

木造校舎を歴史館に
読売新聞
日本書紀」に登場する紀氏にまつわる伝承も残る。 しかし、こうした地元の歴史や文化を子どもたちが学べる施設はなく、財政難で施設を新設する余裕もなかったことから、孝子小の校舎に着目した。 町教委によると、空き教室を使って、遺跡から出土した土器や石器などの ...


聖なる土地で撮影されたオーブ!! その正体とは
内外タイムス
熊野周辺は日本書紀にも登場する古くから続く聖地であり、そこへ続く古道も、代々多くの信者や行者が連綿と歩き続けたマジカルロードであるといえる。 そのような聖地で撮影された一枚の不思議な写真が、われわれ山口敏太郎事務所の元に届いた。写真を見ると、穏やかな ...

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日本書紀関連エントリー

万葉集、大仏、法隆寺、古事記、日本書紀を生んだ平城京

... 「僅か74年の平城京だったが、万葉集、大仏、法隆寺、古事記、日本書紀が生まれた素晴らしい時代」と。火山、胸が熱くなった。 「翌711年、サラセン・ウマイヤ朝がアフリカからジブラルタル海峡を渡り、イスパニア(スペイン)を支配。 ...

万葉集、大仏、法隆寺、古事記、日本書紀を生んだ平城京

万葉集、大仏、法隆寺、古事記、日本書紀を生んだ平城京

... 「僅か74年の平城京だったが、万葉集、大仏、法隆寺、古事記、日本書紀が生まれた素晴らしい時代」と。火山、胸が熱くなった。 「翌711年、サラセン・ウマイヤ朝がアフリカからジブラルタル海峡を渡り、イスパニア(スペイン)を支配。 ...

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日本書紀

... 『日本書紀』と名づけられたと推測する。 なお、一部には、『日本紀』と『日本書紀』とは別の書であると考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されている。 編纂方針 『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上で ...

日本書紀

三五歴記と日本書紀

... 東アジアの古代史に興味があって、2月ごろだったかに宇治谷孟著「全現代語訳 日本書紀 上」を読んだ。 その冒頭には、 「昔、天と地がまだ分かれず ... 日本書紀のこの部分は、「中国的な天地剖判(ほうはん)(天地のわかれ)の思想を記し ...

三五歴記と日本書紀

古事記・日本書紀とは何か?

問いかけ第2弾! ■1 古事記・日本書紀とは何か? 皆様に問いかけです。 「古事記」「日本書紀」とは何か?? 記紀は日本の正史とされていますが、この記紀とは一体何なのか? そして、この記紀をどのように位置づければいいのか? さらには ...

古事記・日本書紀とは何か?

日本書紀旅行記

日本の旅 関西を歩く 奈良、桜井市の卑弥呼伝説の箸墓古墳周辺(by さすらいおじさんさん)

日本書紀
箸墓古墳(はしはかこふん)は卑弥呼(ひみこ175-248年頃)の没年に近い3世紀半ば頃造られたとされる、墳長約278m、後円部は径約150m、高さ約30m、前方部は前面幅約130mで高さ約16mの大型前方後円墳だ。蜀漢・西晋の官僚、陳 寿(ちん じゅ233-297年)の著書・『三国志』中の「魏書」(全30巻)の東夷伝倭人の条=魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に伝えられる倭国の女王「卑弥呼」の墓ではないかと邪馬台国畿内説の学者たちが予測している。
箸墓古墳は現在宮内庁により『日本書紀』に記載されている第7代孝霊天皇(こうれいてんのう・紀元前342年-紀元前215年)の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはかー生没年不詳)として管理されているが3世紀半ば頃に造られた墓とすれば年代が400年以上異なる点が疑問だ。
しかし一方で倭迹迹日百襲姫命には巫女としての神話があり、紀元前92年に崇神天皇(すじんてんのう・紀元前148-紀元前29年)の依頼で災害の原因を占い三輪山の大物主神を祀ることを進言し、崇神天皇は大物主神の娘・大田田根子(おおたたねこ)を大神神社の神主にすると災害がなくなったとされる。
また崇神紀十年の条の箸墓伝説では倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻となるが大物主の本体が蛇であることを知って驚き、妻は箸が刺さって死んだため葬った墓が「箸墓」と呼ばれるようになったとしている。
このような巫女としての神話からも倭迹迹日百襲媛命を邪馬台国を治めた卑弥呼とする説が生まれている。
神話と実話が混在している時代のことだが、神の山・三輪山一帯が邪馬台国で箸墓古墳(はしはかこふん)が「卑弥呼の墓」だったとすれば卑弥呼は世界各国の宗教で出現している「神の化身」や「預言者」と同様な存在だったのだろう、と想像が膨らむ。
(写真は箸墓古墳)


【旅行時期】2009/12/02~2009/12/02
【エリア】桜井・三輪
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】さすらいおじさん

日本の旅 関西を歩く 奈良、天理市の崇神天皇山邊道勾岡上陵周辺(by さすらいおじさんさん)

日本書紀
崇神天皇(すじんてんのう・紀元前148-紀元前29年)は、『古事記』『日本書紀』に記されている第10代の天皇で、神話と実話の境界の時代に実在の可能性が高いとされる天皇だ。崇神天皇の代になって三輪王朝が築かれ初めて日本全国規模の政権になったとする説もある。ヤマト政権や邪馬台国の謎を解明するうえで重要な人物だ。
山の辺の道付近には数多くの古墳が点在しているが崇神天皇の山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)は全長240mの壮大な前方後円墳だった。
長岳寺(ちょうがくじ)は崇神天皇山邊道勾岡上陵に近い天理市柳本町にある高野山真言宗の寺院で824年に淳和天皇(じゅんなてんのう786-840年)の勅願により空海(くうかい774-835年)が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したといられ最盛期には48の塔頭が建ち並んでいたそうだ。
関西花の寺二十五霊場第19番札所で山の辺の道の中間点に位置しているマスメディアも良く訪れる人気の寺院だ。
(写真は崇神天皇山邊道勾岡上陵)

【旅行時期】2009/12/02~2009/12/02
【エリア】天理
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】さすらいおじさん

京都最古の寺院 広隆寺(by Licodさん)

日本書紀
広隆寺は、聖徳太子に所縁のある七寺のひとつで603年に建立された京都(山城)で最古の寺院です。
日本書紀によると、聖徳太子の側近であった秦河勝が太子より仏像を賜り、それを御本尊としてこのお寺を建立したとあり、そしてその仏像が、現存する弥勒菩薩であると広隆寺のリーフレットに記述されています。
広隆寺には、二つの弥勒菩薩像があります。ひとつが、国宝第1号となった百済伝来とされる宝冠弥勒像、もうひとつが宝髻弥勒像、通称泣き弥勒像で、こちらも国宝です。
1400年前、秦河勝が聖徳太子から譲り受けた仏像がどちらなのか定かではないようですが、いずれにしろ日本の仏教史の原点に近い歴史のあるお寺であることは間違いありません。


【旅行日程】

12/29 東京→京都→東山 青蓮院、知恩院、八坂神社、
     六波羅蜜寺、建仁寺 河原町→京都

12/30 京都→太秦 広隆寺 太秦広隆寺→嵐山 天龍寺、法輪寺、
     清涼寺 嵯峨嵐山→京都

12/31 西本願寺、二条城 二条城前→蹴上 南禅寺、永観堂
     京都→東京 



【旅行時期】2009/12/29~2009/12/31
【エリア】嵐山・嵯峨野・太秦・桂
【テーマ】寺社・札所めぐり
【投稿者】Licod

同窓会を兼ねた九州の旅④都府楼跡~戒壇院のハイキング(by tsunetaさん)

日本書紀
11月29日、午前9時に宿を発ち、ホテルのマイクロバスで都府楼跡に向かった。西鉄二日市駅でT君と別れて総勢12名になり、午前9時半より約1時間半、都府楼跡~戒壇院~観世音寺迄の散策を楽しんだ。
ここでは戒壇院迄をまとめた。
天気はすっきりしないが雨は降りそうにない曇天であつた。

都府楼跡について・・・説明文による

古くから都府楼の名で知られてきたこの地域は、日本書紀によれば、天智二年(663年)唐・新羅の連合軍と白村江において百済と共に戦って大敗した我が国が、大陸からの侵攻に備え、博多の那ノ津(当時は官家と呼ばれ、現在の福岡市大橋附近と想定されている所)にあった大宰の府(九州一円の統治の拠点であると共に、対外交渉を掌る役所)を移したところである。

 大宰府をこの地に置くと同時に、百済からの亡命者の指導により北面の四王寺山に大野城、南面の基山に基肄城(きいじょう)を、平野部には水城を築いて大宰府を防衛した。

*写真は都府楼跡・・・後方の山は四王寺山

【旅行時期】2009/11/29~2009/11/29
【エリア】太宰府・二日市
【テーマ】
【投稿者】tsuneta

錦繍の古都・寺巡り!⑧<広隆寺>(by 風遊さん)

日本書紀
<寺巡り>
下賀茂神社~東福寺(方丈園)~即宗院~龍吟庵~妙心寺~化野念仏寺~鳥居本~広隆寺~大覚寺

広隆寺と言えば国宝・弥勒菩薩像!何度も前を通ってるのですが、今回が初めての入山です。

■創建は推古天皇の時代まで遡る京都で最古の寺
 この寺の創建にかかわる逸話が『日本書紀』に記されている。603年(推古11)11月聖徳太子は群臣を前にして、「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏を祀るものはいないか」と尋ねられた。そのとき秦河勝(はたのかわかつ)が「私が祀りましょう」と名乗りで、仏像を拝領した。そして、その仏像を祀るために建てた寺が、今の広隆寺の前身である蜂岡寺である、というのだ。

 836年(承和3)作成の『広隆寺縁起』は、別の創建伝承を伝えている。あるとき聖徳太子は秦河勝に次のような話をした。「私は昨夜、不思議な夢をみた。香ばしい香りに満ちた桂(かつら)の林の中に大きな枯れ木があり、五百羅漢がその下に集まってお経を読んでいる。枯れ木からは大光明が放ち、羅漢の読経が微妙な声で仏法を説いているように聞こえ、まことに格別な霊地に思えた」。すると、河勝は「その場所は我々が住む葛野(かどの)です」と答え、その場所へ聖徳太子を案内した。そこでは、大きな桂の枯れ木の周りを無数の蜂が飛んでいて、その蜂の群は羅漢が説法しているように見えた。そこで、仮宮殿を造って楓野(かえでの)別宮となずけ、河勝に命じて蜂岡寺を建立させた。楓野別宮は桂宮院のことであり、現在の建物は鎌倉時代の再建だが、国宝建造物として広隆寺の奥に建っている。

『広隆寺縁起』は、蜂岡寺はもともと葛野郡九条川原里・同荒見社里にあったが、それを現在の地に移したと伝える。京都市北区白梅町にある北野廃寺が蜂岡寺の旧地であるとする説がある。しかし、二つの寺から出土する創生期の瓦の様相が異なっており、7世紀前半に別の寺として成立していたとする説もある。
(資料参照)


【旅行時期】2009/11/21~2009/11/23
【エリア】嵐山・嵯峨野・太秦・桂
【テーマ】寺社・札所めぐり
【投稿者】風遊

日本書紀の画像